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ハル・サフリエニ地下墳墓|地下10メートルに築かれたマルタの死者の建築

ハル・サフリエニ地下墳墓の迷宮 考古学・古代文明の異景

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地下10メートルに築かれた死者の建築――マルタのハル・サフリエニ地下墳墓

地中海の島国マルタ(Malta)の町パオラ(Paola)の地下には、地上からはほとんど想像できない巨大な空間が眠っている。ハル・サフリエニ地下墳墓(Ħal Saflieni Hypogeum)である。

ここは自然洞窟をそのまま墓にした場所ではない。新石器時代の人々が石灰岩を掘り、部屋と通路をつなぎ、三つの層にわたる地下空間を造り上げた。最深部は現在の道路面から約10.6メートル。地下空間はおよそ500平方メートルに及び、そこには約7000人分と推定される人骨が納められていた。

さらに奇妙なのは、地下の壁や天井が単なる空洞ではないことだ。柱、入口、天井のような形が岩盤から削り出され、地上に建てられていた巨石神殿の内部を思わせる「建築」が再現されている。

なぜ、死者を納める場所のために、これほどの地下建築が必要だったのだろうか。

マルタのパオラ市街にあるハル・サフリエニ地下墳墓の現在の入口
パオラ市街にあるハル・サフリエニ地下墳墓の入口。巨大な先史時代の地下遺構は、現在の市街地の下に広がっている。
写真:Entrance to the Ħal-Saflieni Hypogeum/作者:Ethan Doyle White/ライセンス:CC BY-SA 4.0

住宅工事で現れた、先史時代の地下世界

ハル・サフリエニ地下墳墓が近代に知られるようになったのは1902年のことだった。住宅建設の基礎工事中、作業によって地下空間が偶然開かれたのである。

しかし発見は、そのまま保存につながったわけではない。正式に遺跡として扱われるまで住宅工事は進み、上層の一部はすでに損傷を受けていた。つまり、この遺跡は世に知られた瞬間から、失われつつあった。

その後、発掘によって地下には複数の部屋、通路、くぼみ、埋葬空間が広がっていることが明らかになった。現在では三層からなる複合体として理解されている。最も早い段階の空間は上層にあり、長い利用期間のなかで、さらに深い中層、下層へと拡張されたと考えられている。

主要な墓地利用について、ユネスコ(UNESCO)はおよそ紀元前4000~2500年としている。一方、遺跡を管理するヘリテージ・マルタ(Heritage Malta)の公開資料には、これより長い利用期間を示す年代幅も見られる。終了年代の表現は資料間で一致していないが、新石器時代の社会が長期間にわたりこの地下空間を使っていたことは確かである。

石を積むのではなく、岩の中から建築を彫り出す

地下墳墓が掘られたのは、比較的加工しやすいグロビゲリナ石灰岩(Globigerina limestone)の地盤だった。石器や鹿角などを用いて岩盤を削り、部屋を一つずつ拡張していったと考えられている。

中層へ進むと、この遺跡の異様さが際立つ。

壁には、石柱のように見える部分が彫り残されている。開口部には、巨石を組んだ入口のような形が刻まれている。天井近くには、上へ行くほど内側へ張り出す持ち送り構造を思わせる表現まである。

しかし、これらは本物の柱や積み石ではない。すべて岩盤の一部である。

地上の建物なら、石材を運び、積み上げて形をつくる。ハル・サフリエニでは逆だ。不要な岩を取り除くことで、最初からそこに埋まっていたかのように建築の形を残していった。

ハル・サフリエニ地下墳墓の中層にある中央室。石灰岩から柱や開口部が彫り出されている
中層の中央室。積み石ではなく、石灰岩の岩盤を削り残すことで柱や入口のような建築表現が造られている。
写真:Hal Saflieni Hypogeum – Middle Level – The Central Chamber/作者:xiquinhosilva/ライセンス:CC BY 2.0

この造形が重要なのは、同時代のマルタに建てられた巨石神殿との共通点が多いからである。地上の神殿は現在、その多くが屋根を失っている。しかし地下墳墓には、天井まで含めた「建築表現」が残っている。そのため、ここは巨石神殿が本来どのような内部空間を持っていたのかを考える手掛かりにもなっている。

それでも、地下墳墓を単純に「地下神殿」と呼ぶのは慎重であるべきだ。大量の人骨が見つかっている以上、墓地としての性格は明白だが、儀礼や祭祀がどの程度行われたかまでは断定できない。

約7000人の死者は、なぜここに集められたのか

地下から見つかった人骨は、約7000人分と推定されている。

ただし、それぞれが個別の墓に整然と葬られていたわけではない。骨は集団で納められており、一度別の場所で遺体を腐敗させ、その後に骨を地下へ移した二次葬が行われた可能性も指摘されている。

これは、ハル・サフリエニが単なる「死者の保管庫」ではなかったことを示唆する。

何世代にもわたる人々の骨が、同じ地下空間へ集められる。そこでは個人の墓というより、共同体の死者を集積する場所としての意味が強かったのかもしれない。

岩の中に地上の建築を思わせる空間を造り、その奥に死者たちの骨を納める。もしそうした行為に象徴的な意味があったとしても不思議ではない。しかし、文字記録を残さなかった社会である以上、その意味を現代の言葉で確定することはできない。

暗闇に残された赤い渦巻き

地下墳墓は石灰岩の色だけでできた無彩色の世界ではなかった。

壁や天井の一部には、赤色黄土(red ochre)で描かれた渦巻きや幾何学模様が残っている。ユネスコは、これらをマルタ諸島で確認されている唯一の先史時代の壁画としている。

ハル・サフリエニ地下墳墓のオラクル室に残る赤色黄土の渦巻き状の壁画
オラクル室に残る赤色の壁画。暗い地下空間の壁や天井には、赤色黄土による渦巻きや幾何学模様が描かれている。
写真:Hal Saflieni Hypogeum – Wall paintings in the Oracle Chamber/作者:xiquinhosilva/ライセンス:CC BY 2.0

赤という色が何を意味したのかは分かっていない。血や生命と関連する象徴だった可能性は論じられているが、当時の人々自身が説明を残したわけではない。

確かなのは、自然光がほとんど届かない地下空間に、わざわざ顔料を持ち込み、模様を描いたということだ。

掘るだけでも長い労力が必要だった空間に、さらに装飾を加える。地下墳墓が実用性だけでは説明しにくい場所だったことを感じさせる痕跡である。

「眠れる貴婦人」は女神だったのか

発掘品のなかで特に知られているのが、横たわる人物を表した小さな土製像、通称「眠れる貴婦人(Sleeping Lady)」である。

丸みを帯びた女性像が横向きに寝台のようなものの上で横たわっている姿で知られる。現在は地下墳墓ではなく、国立考古学博物館(National Museum of Archaeology)で展示されている。

ハル・サフリエニ地下墳墓から出土した、横向きに寝台のようなものの上で横たわる女性像「眠れる貴婦人」
ハル・サフリエニ地下墳墓から出土した通称「眠れる貴婦人」。特定の女神を表す像かどうかは確定していない。
写真:The Sleeping Lady of Ħal-Saflieni/作者:EnriqueTabone/ライセンス:CC BY-SA 4.0

しばしば「母なる女神」や「豊穣の女神」と紹介されることがあるが、それは確定した事実ではない。この像が特定の神格を表しているのか、どのような宗教的意味を持っていたのかは決着していない。

地下墳墓をめぐる解釈には、こうした「分かりやすい物語」が入り込みやすい。だが、興味深いのは断定できることだけではない。何を意味していたのか分からないまま、数千年前の造形が残っていること自体が、この遺跡の重要な特徴でもある。

声が響く「オラクル室」

中層には、通称「オラクル室(Oracle Room)」と呼ばれる空間がある。ここでは声を発したときに独特の共鳴が起こることが知られている。

この現象は単なる伝説ではない。音響研究でも、地下墳墓に顕著な共鳴特性があることが測定されている。

しかし、ここから「神官が低い声で神託を告げるために造られた」と進むと、話は別になる。

共鳴が存在することは確認できる。だが、その効果を設計者が意図していたか、実際に儀礼へ利用したかは証明されていない。2020年の研究では、複数の空間の形状と周波数特性から意図的調整の可能性が提案されたものの、仮説の段階である。

「オラクル室」という名前自体も先史時代の名称ではない。

それでも、暗い地下空間で声が予想外に響くという現象が、そこに入った人々へ強い印象を与えた可能性はある。音が儀礼の一部だったのか、それとも偶然生まれた性質だったのか。地下墳墓は、視覚だけでなく聴覚についても答えの出ない問いを残している。

現代人の呼吸さえ、遺跡に影響する

1980年、ハル・サフリエニ地下墳墓は世界遺産に登録された。

現在、この遺跡で重要なのは「どう見せるか」だけでなく、「人をどこまで入れてよいか」である。地下空間では、来訪者の体温、呼吸による二酸化炭素、湿度の変化が環境に影響する。壁画や岩肌にとって、人間そのものが保存上の負荷になりうる。

2026年10月時点のヘリテージ・マルタの規約では、入場は1日80人まで、各ツアー10人に制限されている。内部での写真・動画撮影も禁止されている。

数千年前の人々が死者のために掘った地下空間を守るため、現代では訪れる人間の数まで厳密に管理されているのである。

地下に造られたのは「墓」だけだったのか

ハル・サフリエニ地下墳墓について、分かっていることは多い。

三層の地下空間がある。約7000人分と推定される人骨が見つかった。赤い壁画が残る。地上の巨石神殿に似た建築表現がある。声が特定の場所で強く共鳴する。

しかし、最も大きな問いは残ったままだ。

なぜ当時の人々は、死者を葬るために、これほど深く、複雑で、建築的な地下世界を造ったのか。

単に埋葬場所が必要だっただけなら、柱を彫り、天井を飾り、壁画を描く必要はない。そこには死者、共同体、あるいは地下そのものに対する特別な考え方があった可能性がある。

けれども、それを「神殿」「冥界」「神託の場」と一語で説明してしまえば、かえって遺跡の本当の不思議さを失う。

ハル・サフリエニに残っているのは、答えではない。数千年前の人々が膨大な労力をかけ、岩の内部にもう一つの世界を造ったという事実である。

そして、その世界が何を意味していたのかは、今も地下の暗闇の中に残されている。

参考資料・出典

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