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カディクチャン|炭鉱事故で「一夜に消えた町」ではなかった

カディクチャン 廃鉱の町の記憶 廃墟・放棄された場所

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カディクチャン――炭鉱事故で「一夜に消えた町」ではなかった

ロシア極東の内陸部に、集合住宅や学校、文化会館を残したまま人の姿が消えた町がある。カディクチャン(Кадыкчан)だ。

マガダン州(Магаданская область)のススマン(Сусуман)から北西へ約65キロ。近年公表された公的人口統計では居住人口が計上されていない一方、行政上は今も都市型集落の名が残っている。

カディクチャンはしばしば、「1996年の炭鉱事故をきっかけに、住民が一斉に去ったゴーストタウン」と紹介される。

だが、実際の歴史はもっと複雑だ。

この町は事故だけで突然消えたのではない。石炭を求めて強制労働によって開発され、資源都市として成長し、ソ連崩壊後の産業縮小で人口を失い、炭鉱事故が最後の大きな転機となった。そして事故後も、住民は何年も暮らし続けていた。

カディクチャンの廃墟が物語っているのは、一度の惨事ではなく、ひとつの資源都市がつくられ、栄え、維持できなくなっていくまでの長い過程である。

ロシア・マガダン州カディクチャンに残る放棄された建物群
2011年撮影。カディクチャンに残る放棄された建物群。
写真:Laika ac Kadykchan (6480171203).jpg/作者:Laika ac/ライセンス:CC BY-SA 2.0

石炭が見つかり、町がつくられた

カディクチャンの歴史を1940年代から始める紹介は多い。しかし、石炭開発そのものはそれより早い。

地域史資料によれば、1935年、地質調査隊がアルカガラ(Аркагала)川流域で有力な石炭層を発見した。1937年にはアルカガラ地区で坑道が掘られ、約2,500トンの石炭が採掘されたとされる。カディクチャン周辺でも1930年代後半には坑内採炭が始まっていた。

第二次世界大戦期になると、石炭を掘る労働者の集落として町が本格的に形成されていく。

ただし、その初期開発を担ったのは自由な労働者だけではない。

当時のコリマ(Колыма)地方では、ソ連の強制収容所制度であるグラーグ(ГУЛАГ)の囚人労働が、道路、鉱山、採炭施設などの建設に大規模に使われていた。カディクチャン周辺にも複数の収容所分遣隊が置かれ、地域史資料では囚人労働者が約2,000人規模に達した時期があったとされる。

1948年から1954年にかけては、特別収容所ベールラグ(Берлаг)の分遣隊も石炭地区に置かれ、およそ1,000人の囚人がいたという。

つまり、後に学校や集合住宅を備えた炭鉱町へ成長するカディクチャンの土台には、強制労働の歴史がある。

シャラーモフもカディクチャンで働いていた

この土地と強制収容所の関係は、統計資料だけに残っているわけではない。

作家ヴァルラーム・シャラーモフ(Варлам Шаламов)は、スターリン期の収容所体験を描いた『コリマ物語』で知られる人物だ。彼自身もカディクチャンとアルカガラの石炭現場へ送られ、1940年から1942年にかけて働いていた。

シャラーモフは回想の中で、カディクチャンの鉱区へ送られ、坑道を掘るための作業に従事した経験を書き残している。

現在の廃墟だけを見ると、カディクチャンは「ソ連時代に建てられた炭鉱町」のように見える。しかし、その町並みが整う以前から、地下の石炭を取り出すために囚人たちが投入されていた。

町の歴史は、石炭の発見と同時に、コリマの強制労働史にもつながっている。

炭鉱を中心に、普通の町が育っていった

戦後、カディクチャンは炭鉱町として拡大した。

1964年には正式に都市型の労働者集落へ分類される。町は発展の段階に応じて、旧カディクチャン、新カディクチャン、さらに後から整備された住宅地区という三つの区域に分けて語られている。

新しい地区には5階建ての集合住宅が建ち、中等学校、診療所、文化会館、商店なども整えられた。中央暖房と電力のある生活が営まれ、単なる鉱山施設ではなく、家族が暮らす町になっていた。

人口は1970年に3,378人。地域史資料では、1989年の5,794人が最大人口として記録されている。

放棄前のカディクチャンの町並みをまとめた写真モンタージュ
Wikimedia Commonsで「Pre-abandonment photos!」として公開されている、放棄前のカディクチャンを示す写真モンタージュ。個々の古写真の撮影年は特定しない。
写真:Laika ac Kadykchan (11876746625).jpg/作者:Laika ac/ライセンス:CC BY-SA 2.0

カディクチャンの石炭は町の住民を養うだけではなかった。近隣のアルカガラ火力発電所(Аркагалинская ГРЭС)の燃料にも使われ、コリマ地方の電力供給を支える一部となっていた。

言い換えれば、カディクチャンは「そこに住みたい人が自然に集まってできた町」ではない。

地下に石炭があり、それを掘る必要があり、その石炭を使う発電施設があったからこそ成長した、典型的な資源依存型の町だった。

そして、そのことが後に町の弱点になる。

町の衰退は、1996年の事故より前に始まっていた

カディクチャンが廃墟になった理由を、1996年の炭鉱事故だけで説明することはできない。

1980年代末から1990年代にかけて、マガダン州では鉱業の縮小と人口流出が急速に進んだ。ソ連が崩壊すると、国家による北方地域への支援や産業構造も変化し、維持コストの高い鉱山集落は厳しい状況に置かれた。

カディクチャンでも、東側にあった第7鉱が1992年に放棄されている。

1989年には5,794人だった人口は、1996年には約3,200人まで減っていた。

ここが重要だ。

1996年の炭鉱事故が起きた時点で、町はすでに縮小の途中にあったのである。

事故が繁栄していた町を突然ゼロにしたのではない。産業基盤が弱り、人口が流出していたところへ、致命的な出来事が重なった。

1996年、炭鉱で6人が死亡した

1996年11月、カディクチャンの炭鉱で爆発事故が発生し、鉱員6人が死亡した。

鉱山関係の専門資料では、事故日は11月15日とされ、メタンと炭じんの爆発だったと記録されている。ただし、今回確認できた資料では事故調査委員会の原報告書までは確認できていないため、事故の細部は断定を避ける必要がある。

確かなのは、地域史資料で、この事故の後に炭鉱が閉鎖されたと記録されていることだ。

石炭を掘るためにつくられた町で、その中心産業が失われた。

人口流出が続いていたカディクチャンにとって、炭鉱閉鎖は町を維持する理由そのものを失わせる出来事だった。

しかし、それでも町は翌日に空になったわけではない。

事故後も、875人が暮らしていた

カディクチャンについて最も誤解されやすいのが、この部分である。

「爆発事故の後、住民が一斉に避難し、町がそのまま放棄された」という物語は分かりやすい。だが人口統計を見ると、そのイメージとは合わない。

事故から5年後の2001年、町では住宅の暖房や電力が切り離される措置が進んでいた。それでも複数の通りには住民が残っていた。

そして2002年の国勢調査では、カディクチャンの人口は875人と記録されている。

事故から6年たっても、まだ875人が暮らしていたのである。

その後、住民の移転はさらに進んだ。地域史資料によれば、住民には勤続年数などに応じた移転資金が支給された。さらに2003年には、マガダン州の「将来性のない集落」から住民を移転させる政策が策定され、カディクチャンもその対象になった。

つまり、人がいなくなった過程には、炭鉱閉鎖だけでなく、行政による計画的な移転も含まれていた。

2010年の国勢調査では、カディクチャンに居住人口は記録されなかった。

1996年の事故から、2010年国勢調査で居住人口が記録されなくなるまで、およそ14年。

「一夜にして消えた町」ではなく、インフラが止まり、仕事がなくなり、移転が進み、少しずつ人が去っていった町だった。

「死の谷」という名前は本当なのか

カディクチャンには、廃墟の雰囲気にぴったりすぎる説明がある。

「カディクチャンという名は、エヴェン語で『死の谷』を意味する」という説だ。

ゴーストタウンの紹介では非常に印象的で、今の町の姿とも結びつけやすい。しかし、今回確認したマガダン州の地域史資料では、この説明は支持されていない。

同資料では、カディクチャンの名称はエヴェン語に由来し、「小さな峡谷」「狭い谷」「裂け目」に近い意味だと説明されている。

「死の谷」という訳がどこから広まったのかは、今回の調査では確定できなかった。

少なくとも、町が廃墟になった現在の姿から逆算して、地名まで不吉な意味だったと考えるのは危険である。

むしろ興味深いのは、「死の谷」という物語が広まりやすいほど、現在のカディクチャンの印象が強いということかもしれない。

人はいなくても、町そのものは行政上残っている

さらに奇妙なのは、カディクチャンが「完全に消滅した町」でもないことだ。

ロシア連邦国家統計庁(Rosstat)の近年の人口資料では、カディクチャンに居住人口は計上されていない。

ところが、2022年のマガダン州法や2023年の州政府文書を見ると、カディクチャンは今もススマン市管区を構成する都市型集落の一つとして記載されている。

人が住んでいないことと、行政上の町が廃止されていることは別なのである。

山地と森林に囲まれたカディクチャンの建物群の遠景
2011年撮影。山地と森林の中に残るカディクチャンの建物群。
写真:Laika ac Goodbye Kadykchan (6480343393).jpg/作者:Laika ac/ライセンス:CC BY-SA 2.0

さらに、周辺の石炭利用まで完全に終わったわけではない。

2024年の発電事業者側の資料では、「カディクチャン」の名を冠する露天掘り鉱から、アルカガラ火力発電所へ石炭が供給されていることが確認できる。

住民の町は消えた。それでも、その土地の石炭とカディクチャンという名前は、産業の中に残っている。

カディクチャンが本当に残しているもの

廃墟になった集合住宅や公共施設は確かに目を引く。

だが、カディクチャンの本当の面白さは、「人がいない町並み」だけにはない。

この町の始まりには、コリマの強制収容所と囚人労働がある。成長期には、石炭と発電所を中心に生活圏が築かれた。ソ連崩壊後には、その仕組みを維持できなくなり、人口が急減した。そして1996年の事故が、すでに弱っていた町の存続をさらに難しくした。

事故後も住民は残り、移転には何年もかかった。

最終的に国勢調査で居住人口が記録されない状態になったが、行政上の地名は消えていない。周辺では今も石炭が利用されている。

カディクチャンは、「炭鉱事故で突然捨てられた町」と呼ぶには歴史が長すぎる。

むしろここに残っているのは、国家が資源のために町をつくり、その資源をめぐる経済と制度が変わったとき、町そのものまで維持できなくなっていく過程だ。

人が去った後の建物は、その最後の状態にすぎない。

廃墟になるまでの数十年をたどってこそ、カディクチャンという場所の異様さが見えてくる。


参考資料・出典

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