PR・広告

地球の不思議、その先へ。

奇妙な風景や未知の世界をめぐる合間に。
気になる情報を、3つ集めました。

気になる広告 01

気になる広告 02

気になる広告 03

ベルチテ旧市街|なぜ戦争で壊れた町は再建されなかったのか

戦火に消えた旧市街の夕暮れ 廃墟・放棄された場所

PR・広告

地球の珍品、値段まで規格外!?

124万円超の巨大地球儀に、148万円の隕石、
そして176万円のティラノサウルスの歯の化石。
地球と宇宙の不思議を感じる、 驚きの商品を集めました。

ベルチテ旧市街――なぜスペインは、破壊された町を建て直さなかったのか

スペイン(España)北東部の乾いた大地に、屋根を失った教会、崩れた家々、途中で途切れた壁がまとまって残る町がある。

ベルチテ旧市街(Pueblo Viejo de Belchite)である。

ベルチテ旧市街に広がる崩れた建物群を見渡すパノラマ
スペイン内戦で大きな被害を受け、その後も長い時間をかけて廃墟化したベルチテ旧市街。2014年撮影。
写真:Panorama of Ruins – Belchite – Aragon – Spain – 04/作者:Adam Jones/ライセンス:CC BY-SA 2.0

この場所はしばしば、「スペイン内戦(Guerra Civil Española)で破壊され、そのまま時間が止まった町」と紹介される。確かに、1937年のベルチテの戦い(Batalla de Belchite)で町は甚大な被害を受けた。しかし、現在の廃墟を「戦闘直後の姿がそのまま保存されたもの」と考えると、ベルチテの本当の歴史を見誤る。

戦争が終わったあとも、人々はここで暮らしていた。そしてフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)体制は、壊れた町を元通りにするのではなく、その隣に新しい町を造る道を選んだ。

なぜ、住民の町を再建せず、廃墟として残したのか。

ベルチテを特別な場所にしているのは、1937年の破壊だけではない。その後に重ねられた政治、生活、強制労働、記憶の作り替え、そして今も続く崩壊まで含めて、一つの町の姿になっていることである。

1937年、町そのものが戦場になった

ベルチテは、スペインのアラゴン州(Aragón)、サラゴサ県(Provincia de Zaragoza)にある町である。1937年8月24日、共和国軍はサラゴサ(Zaragoza)方面へ攻勢を開始し、その途中にあるベルチテを攻撃した。

ベルチテはフランコ側の防御拠点となり、戦闘は市街地の中へ入り込んだ。家屋や教会が防御地点となり、道路を挟み、建物を一軒ずつ奪い合うような激しい戦いが続いた。9月6日までに共和国軍が町を制圧したが、サラゴサそのものの攻略には至らなかった。

犠牲者数は資料によって差がある。ベルチテ市や研究資料では約5,000人とするものが多い一方、約6,000人規模とする市の資料もある。厳密な数字を一つに固定するのは難しいが、ベルチテをめぐる戦闘が極めて大きな犠牲を伴ったことは確かである。

翌1938年3月、ベルチテは再びフランコ派に占領された。

ここまでなら、ベルチテはスペイン内戦の激戦地の一つである。だが、この町が今日まで特別な廃墟として残った理由は、戦闘そのものより、戦後の決定にある。

フランコは、壊れた町の隣に新しい町を造った

内戦終結後、フランコ体制はベルチテ旧市街を全面的に復興しなかった。

代わりに、旧市街のすぐ隣に「新しいベルチテ」を建設した。

一見すると奇妙な判断である。戦争で傷んだ建物を修復し、元の町を使い続ける選択肢もあり得たはずだ。だが、当時のフランコ体制にとって、ベルチテの廃墟には政治的な意味があった。

研究によれば、旧市街の破壊は、フランコ体制の初期には共和国側の「野蛮さ」を示す象徴として利用された。壊れた旧市街と、その隣に建設される新しい町を対比させることで、戦争の破壊と新体制による「再生」を視覚的に示す構図が作られたのである。

したがって、「フランコが反戦のため、戦争の悲惨さを後世に伝える目的でベルチテを保存した」と理解するのは正確ではない。

現在のベルチテが平和や戦争の記憶を考える場所として位置づけられるようになったのは、もっと後の時代のことである。

廃墟になっても、人はすぐには去らなかった

ベルチテについて最も誤解されやすいのが、この点かもしれない。

1937年の戦闘が終わった瞬間に、旧市街が無人の廃墟になったわけではない。

戦後も、約3,000人の住民が旧市街で生活を続けたとされる。壊れた建物の間で暮らしながら、人々は新しい町の完成を待つことになった。

新市街の最初の住宅が住民へ引き渡されたのは1954年である。その後も移転は段階的に進み、旧市街が完全に放棄されたのは1964年とされている。

つまり、ベルチテ旧市街は「1937年で時間が止まった町」ではない。

戦闘から完全な無住化まで、およそ27年の時間がある。

現在見える崩れた建物には、砲撃や市街戦の傷だけでなく、戦後の居住、修理の制限、建築資材の転用や持ち出し、その後何十年にも及ぶ雨風と構造劣化が重なっている。

ベルチテの景観は、戦場の瞬間写真ではなく、戦後史そのものが積み重なった結果なのである。

新しい町の建設には、共和派囚人も動員された

新ベルチテの建設には、もう一つ重い歴史がある。

アラゴン州の民主的記憶・公文書資料によると、1940年から1945年までベルチテ刑務キャンプ(Campamento Penitenciario de Belchite)が置かれ、共和国側の囚人が新市街の建設作業に従事した。

研究や公的資料では、その人数は1,000人を超えたとされる。

この事実を知ると、旧市街と新市街の関係は単純な「破壊された町」と「復興した町」ではなくなる。

一方には戦闘で壊れ、政治的な象徴として残された旧市街がある。その隣では、戦争の敗者となった側の囚人たちが、新体制の町を建設していた。

ベルチテでは、戦争と戦後を地図上で切り離すことができない。二つの町が並んで存在すること自体が、内戦後のスペイン社会を物語っている。

内戦の廃墟の地下から、もっと古い町が現れ始めた

ベルチテを1937年だけで語れない理由は、近年さらに増えている。

旧市街では考古学調査が進み、後期ローマ時代から西ゴート期にかけての陶器が確認された。これは、この場所の居住史が従来考えられていたより古く、少なくとも4〜7世紀ごろまで遡る可能性を示している。

ただし、現時点で「ベルチテという都市がローマ時代に創建された」と断定できる段階ではない。確認されているのは、イスラーム期以前にこの地点で人間活動があった可能性を強く示す遺物である。

中世の歴史も、発掘によって具体像を増している。

2024〜2025年の調査では、かつてラ・シノア(La Sinoa)と呼ばれていた建物から、ユダヤ教礼拝施設に関係する構造や装飾が見つかった。2026年の査読研究では、この建物が中世ベルチテのシナゴーグだったと同定されている。

ベルチテには中世、キリスト教徒だけでなく、ムスリム共同体やユダヤ人住民もいたことが文書史料から確認できる。ただし、それを単純に「三宗教が平和に共存した理想都市」と表現することはできない。各共同体が存在したことと、社会関係が常に平和だったことは別の問題だからである。

内戦の廃墟として有名になった町の地下から、それより千年以上古い歴史が少しずつ掘り出されている。ベルチテでは、崩れていく地上と、発見されていく地下が同時に存在している。

教会と門は、戦争以前のベルチテを残している

旧市街には、戦前の都市構造を伝える重要な建築がいくつも残る。

代表的なのが、サン・マルティン・デ・トゥール教会(Iglesia de San Martín de Tours)である。15世紀初頭に煉瓦を主体とするムデハル様式(Mudéjar)で建てられ、その後の時代にも改修された。現在は大きく損傷しているが、その塔と壁はベルチテ旧市街を象徴する遺構になっている。

屋根を失いアーチと壁が残るベルチテ旧市街のサン・マルティン・デ・トゥール教会内部
サン・マルティン・デ・トゥール教会の内部。失われた屋根の下にアーチや壁面が残る。2017年撮影。
写真:Belchite pueblo viejo iglesia de San Martín de Tours/作者:Txo/ライセンス:CC BY-SA 4.0

町の入口にはアルコ・デ・ラ・ビリャ(Arco de la Villa)が残る。反対側にはアルコ・デ・サン・ロケ(Arco de San Roque)もあり、中世以来の市街地の輪郭を伝えている。

ベルチテ旧市街の入口に残る煉瓦造りのアルコ・デ・ラ・ビリャ
旧市街北側の歴史的な門、アルコ・デ・ラ・ビリャ。現在はガイドツアーの集合地点として案内されている。写真は2009年撮影。
写真:Belchite – Arco de la villa 02/作者:Tamorlan/ライセンス:CC BY 3.0

こうした建築を見ると、ベルチテが「戦争によって生まれた廃墟」ではなく、何世紀も続いた生活都市が戦争によって破壊され、その後別の意味を与えられた場所だと分かる。

勝者の記念物から、戦争と平和を考える場所へ

スペインの民主化後、ベルチテ旧市街の意味づけは変化した。

フランコ体制下では勝者側の歴史観と結びつけられていた廃墟が、現在では内戦の破壊、犠牲、記憶について考える場所として扱われている。

2002年には旧市街全体が重要文化財(Bien de Interés Cultural、BIC)の「史跡(Sitio Histórico)」として指定された。2025年にはワールド・モニュメンツ・ファンド(World Monuments Fund)の「ワールド・モニュメンツ・ウォッチ2025(World Monuments Watch 2025)」にも選ばれた。

だが、文化財になったからといって、廃墟が安定したわけではない。

むしろ最大の問題は、建物が今も崩れ続けていることにある。

ワールド・モニュメンツ・ファンドは、現在の劣化速度が続けば、およそ20年で主要な建造物や旧市街の景観的性格が大きく失われる可能性を示している。これは確定した未来予測ではないが、保存が急務であることを示す警告である。

2026年には、同基金やベルチテ旧市街財団、大学などが保存修復のワークショップを実施した。目的は、町を新品同様に「復元」することではない。今残っている廃墟を調査し、崩壊をできるだけ食い止め、その状態を将来へ引き継ぐことである。

ベルチテの奇妙さは、「廃墟が残ったこと」ではない

世界には、戦争や災害で放棄された町がいくつもある。

ベルチテ旧市街が特異なのは、ただ壊れた町が残っているからではない。

1937年に市街戦で破壊され、その後も住民が暮らし、独裁体制によって旧市街を再建しない方針が取られ、その隣には囚人労働を伴って新しい町が築かれた。そして旧市街は、勝者側の政治的象徴から、民主化後には戦争の記憶と平和を考える場所へ意味を変えた。

さらに現在、その廃墟の地下では中世や古代末期の歴史が掘り出される一方、地上の建物は失われ続けている。

ベルチテに「1937年のまま」という瞬間は存在しない。

むしろこの場所に残っているのは、戦争、独裁、復興、放棄、記憶の再解釈、考古学、保存危機という、異なる時代の層である。

だからベルチテ旧市街は、過去が凍結された町というより、過去の意味が今も変わり続けている廃墟と呼ぶ方がふさわしい。

現在のベルチテ旧市街

ベルチテ旧市街は、自由に出入りできる放棄都市ではない。2026年10月時点のベルチテ市の規則では、内部の見学は原則としてガイド付きで行われ、見学者は指定されたグループから離れないことが求められている。通常の歴史見学は約1時間半で、集合地点はアルコ・デ・ラ・ビリャである。

ドローン飛行は禁止され、商業・専門目的の写真や動画撮影には許可が必要とされる。見学時間や料金は変更される可能性があるため、訪問時にはベルチテ市公式サイトで最新情報を確認する必要がある。

廃墟は「保存された完成品」ではない。ベルチテでは、文化財として残すべき建物と、自然に崩れていく建物の間で保存作業が続いている。

その不安定さまで含めて、この旧市街は現在進行形の歴史遺産なのである。

参考資料・出典

PR・広告

楽天で買える、地球の規格外コレクション!

198万円の巨大地球儀に、高さ180cmのモアイ像。
そして約298万円のモササウルス化石まで。
地球の不思議を、驚きの値札とともに眺めてみませんか。

地球儀が、まさかの198万円!?

自宅に180cmのモアイ像!?

海の古代生物が約298万円!?

廃墟・放棄された場所
地球異景録 編集部をフォローする
タイトルとURLをコピーしました