メイズハウ――5000年前の石室に残る冬至の光とノルド人の落書き
スコットランド北方のオークニー諸島(Orkney Islands)に、外から見れば大きな草の丘にしか見えない遺跡がある。メイズハウ(Maeshowe)だ。
その丘の内部には、低く長い通路と、高さ約4.5メートルの石室が隠されている。築かれたのは紀元前2800〜2700年ごろと考えられている。およそ5000年前の建造物である。
そして冬になると、南西を向く細い通路の奥へ夕日が差し込み、中央室まで光が届く。
ここまでなら、メイズハウは「冬至の太陽に合わせて築かれた新石器時代の墓」と紹介できそうに思える。だが内部に入ると、話は急に別の時代へ飛ぶ。
石壁には、建設者とはまったく別の人々が刻んだ30点を超えるルーン文字が残っている。刻んだのは、建造からおよそ3900年後、この島に暮らしていたノルド人たちだった。
つまりメイズハウには、文字資料を残していない新石器時代の人々の建築と、その建築に入り込んで文字を残した中世の人々の痕跡が、同じ石室の中で重なっている。
しかも不思議なことに、後から来た人々の言葉は読めるのに、この巨大な建物を最初に造った人々が何を考えていたのかは、今もほとんど分かっていない。
外からは草の丘、内部には巨大な石室
メイズハウがあるのは、オークニー諸島最大の島であるメインランド島(Mainland)の中央西部、ステネス(Stenness)周辺である。現在の墳丘は直径約35メートル、高さ約7メートル。遠くから見れば、なだらかな緑の盛り土に見える。
しかし、その内部構造は驚くほど大規模だ。
南西側から中央へ向かって低い通路が延び、その先に約4.7メートル四方の中央室がある。現在の中央室は約4.5メートルの高さがあり、四隅には巨大な立石が据えられている。中央室からはさらに三つの小室が分かれる。
通路には一枚で壁面の大部分を構成するほどの大きな砂岩板が使われ、最大約3トンに達する石材もあるとされる。オークニーの地盤をつくる旧赤色砂岩(Old Red Sandstone)は板状に割れやすく、新石器時代の人々はその性質を利用して巨大な石造建築を組み上げた。
ただし、今見えている内部すべてが5000年前のまま残っているわけではない。中央室の新石器時代の石積みはかなり高い位置まで残るが、上部の屋根は19世紀に再建され、20世紀初頭にはさらに補強が加えられた。
メイズハウは奇跡的に完全保存されたタイムカプセルではない。壊れ、掘られ、修復されながら、それでも新石器時代の建築の核心部分を残している遺跡なのである。

写真:Maeshowe chambered cairn/作者:don cload/ライセンス:CC BY-SA 2.0
冬至の夕日は、本当に狙って通されたのか
メイズハウでもっとも有名なのが、冬至前後に起きる光の現象だ。
天候がよければ、冬至を中心とするおよそ6週間、夕日の光が低い通路を進み、中央室の奥まで届く。よく「冬至の日だけ光が差す」と説明されるが、実際には一日限定の現象ではない。

写真:Maes Howe entrance passage/作者:Rob Burke/ライセンス:CC BY-SA 2.0
通路は南西方向を向き、冬の夕日はホイ島(Hoy)の丘陵方向へ沈む。さらに周囲には、ストーンズ・オブ・ステネス(Stones of Stenness)やリング・オブ・ブロッガー(Ring of Brodgar)といった巨大な石造遺構が集まり、メイズハウはそれらや周辺の湖、遠くの山並みと視覚的な関係を持つ場所に置かれている。
このため、冬至期の太陽を意識してメイズハウが配置された可能性は高い。
しかし、そこから先は慎重に考える必要がある。
通路の軸は冬至の太陽に完全な一点照準で一致するわけではなく、19世紀の発掘と再建によって入口周辺の原形も変化している。したがって、メイズハウを「一日単位で暦を測る精密な天文観測所」とみなす根拠は十分ではない。
冬至が何らかの象徴的意味を持っていた可能性はある。暗い季節の底から日が再び長くなる転換点は、死や祖先、再生の観念と結びついていたのかもしれない。
だが、それはあくまで解釈である。
私たちが確かに確認できるのは、通路が冬至期の夕日と明確な方向関係を持ち、その配置が意図的だった可能性が高いことまでだ。その光を見た5000年前の人々が何を思ったのかは、記録されていない。
「墓」なのに、誰が葬られたのか分からない
メイズハウは一般に石室墓、あるいは羨道墓と呼ばれる。
ところが、この巨大な建造物が「誰の墓だったのか」と聞かれると、答えは急に曖昧になる。
1861年に内部が本格的に調査された時点で、石室はすでに何度も侵入や攪乱を受けていた。しかも当時の発掘は現代の考古学的な記録方法が確立する前に行われ、内部の堆積物の多くが詳しく記録されないまま取り除かれた。
確実に記録された人骨はごく少ない。
そのため、ここに多数の死者が恒久的に葬られていたと証明することはできない。死者や祖先と関係する施設だった可能性は高いとしても、一般的な意味での共同墓地だったのか、限られた人々だけが置かれたのか、遺骨が一時的に扱われたのか、それとも儀礼の場としての役割がより重要だったのかは分かっていない。
「これほど巨大な墓なら、さぞ多くの遺体が見つかったのだろう」という直感は、メイズハウでは通用しない。
建物は残った。だが、その建物を必要とした社会のルールは残らなかった。
およそ3900年後、別の人々が石室に入り込んだ
新石器時代の人々がメイズハウを使わなくなった後、遺構は長い時間を経る。
やがてオークニーはノルド系支配のもとに入り、中世の人々がこの古い墳丘を再び意識するようになった。
その証拠が、石室内に残された大量のルーン文字である。

写真:Maeshowe, Orkney – KMB – 16000300014390.jpg/作者:Bengt A. Lundberg/提供:Riksantikvarieämbetet/ライセンス:CC BY 2.5
現在の研究では、30点を超えるルーン銘が確認されている。数え方によって24点、30点前後、33点以上など資料に差はあるが、まとまったルーン銘群として非常に重要で、スカンディナヴィア(Scandinavia)以外に残るものとして最大級と評価されている。
重要なのは、これらが新石器時代の文字ではないということだ。
メイズハウが築かれた時代と、ルーンが刻まれた時代のあいだには、およそ3900年もの隔たりがある。
壁には通常のルーンだけでなく、枝状の暗号的なルーンや、動物を思わせる図像も刻まれている。有名な「メイズハウ・ドラゴン」と呼ばれる図像も、この中世ノルド時代の痕跡であり、新石器時代の美術ではない。
さらに興味深いのは、その内容である。
いくつかの銘文は、墳丘から宝が運び出されたという趣旨を伝えている。これをもとに、ノルド人がメイズハウを古い有力者の墓と考え、宝を探して侵入した可能性も論じられてきた。
ただし、ここでも「宝があった」という物語と、考古学的に確認された事実は分けなければならない。ルーン銘が宝について語っていることは事実だが、その宝物自体が発見されたわけではない。
吹雪の日、古代の墳丘に避難した人々
文字だけでなく、中世の物語にもメイズハウらしき場所が現れる。
『オークニー諸島人のサガ』(Orkneyinga saga)には、1153年1月、ハラルド・マッダダルソン(Harald Maddadsson)らが吹雪を避けて古い墳丘に身を寄せたという記述がある。
もちろん、石室内のすべてのルーンがこの一行によって刻まれたわけではない。別の時期に侵入した人々もいたと考えられており、誰がどの文字を刻んだのかを完全に復元することはできない。
それでも、この記録が面白いのは、ノルド人にとってメイズハウが単なる「地面の下の遺跡」ではなかったことを示している点にある。
彼らがオークニーに暮らしていた12世紀の時点で、メイズハウはすでに約3900年の時を経た建造物だった。
現代人が古代ローマの遺跡を見るとき以上の時間差を持つ建物に、中世の人々が入り込み、その壁に名前や言葉や図像を刻んだのである。
メイズハウは一つの時代の遺跡ではない。後世の人々が「これは何なのか」と想像し、利用し、書き込みを残したことで、さらに別の歴史をまとった遺跡なのだ。
1861年の発掘が、謎を解くと同時に失わせたもの
近代になってメイズハウの内部を広く知らしめたのは、古物研究家ジェームズ・ファーラー(James Farrer)が1861年に行った発掘だった。
この調査によって内部の構造やルーン文字の存在が知られるようになった。一方で、現代の発掘調査であれば慎重に記録されるはずの土層や遺物の位置関係は十分に残されず、通路の一部も損傷した。
つまり、メイズハウは「発掘によって分かった遺跡」であると同時に、「初期の発掘によって分からなくなったことがある遺跡」でもある。
その後も調査は続き、20世紀には外周部や建設年代が検討され、1991年には現在の墳丘より古い活動の痕跡や、巨大な立石を据えたとみられる石穴も確認された。近年にはデジタル技術を用いたルーン文字の再記録も進められている。
一度掘れば答えが出るわけではない。新しい技術が現れるたび、同じ石壁から読み取れる情報が増えている。
メイズハウが本当に不思議なのは「分かるのに、分からない」こと
1999年、メイズハウはスカラ・ブレイ(Skara Brae)、ストーンズ・オブ・ステネス、リング・オブ・ブロッガーとともに、世界遺産「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地(Heart of Neolithic Orkney)」の主要構成資産として登録された。
ここでは、新石器時代の人々がどれほど大規模な建築を実現できたのかが分かる。数トンの石を運び、中央室を築き、地形と太陽の方向を意識して建物を置いたことも見えてくる。
その一方で、もっとも知りたい部分は空白のままだ。
誰がここに入ることを許されたのか。何を祀ったのか。誰を葬ったのか。なぜ冬至の光を取り込んだのか。四隅の巨大な立石にはどんな意味があったのか。
建築は残っているのに、説明書だけが失われている。
そして数千年後、その沈黙した石室に入ったノルド人たちは、逆に大量の文字を残した。彼らが古代の墳丘について何を信じていたのかも完全には分からないが、少なくとも「ここへ来た」という痕跡は読める。
メイズハウの異様さは、冬至の夕日だけにあるのではない。
5000年前の人々が石で残したものと、およそ3900年後の人々が文字で残したものが、同じ暗い部屋に重なっている。そして、文字資料を残していない最初の建設者たちの方が、はるかに大きな仕事を成し遂げながら、はるかに深い沈黙の中にいる。
夕日が通路を抜けるたび、私たちはその設計の一端を見ることができる。
しかし、その光が何を意味していたのかまでは照らしてくれない。
参考資料・出典
- Historic Environment Scotland — Maeshowe Chambered Cairn
- Historic Environment Scotland — History and stories | Maeshowe
- Historic Environment Scotland — Maeshowe Statement of Significance
- Trove / National Record of the Historic Environment — Maes Howe
- UNESCO World Heritage Centre — Heart of Neolithic Orkney
- Smith, N. et al. 2018, “Maeshowe: The Application of RTI to Norse Runes”, Internet Archaeology 47
- MacKie, E. W. 1997, “Maeshowe and the winter solstice”, Antiquity 71(272)
- James Farrer, 1862, Notice of Runic Inscriptions Discovered during Recent Excavations in the Orkneys





