
イングランド南部、ウィルトシャーの田園を上空から見ると、地面に巨大な円が浮かんでいる。その内側にあるのは草地と巨石だけではない。家々が並び、道路が横切り、現代の村そのものが先史時代の巨大な構造物と重なっている。
ここがエイヴベリーだ。直径は約400メートルに達し、その内部には、かつておよそ100基の巨石からなる大きな石環が並んでいた。さらに、その内側にも二つの石環が造られていた。UNESCOが世界最大の先史時代の石環とするほどの規模でありながら、地上に立つと全体を一度に見渡すことさえ難しい。
では、この巨大な円はいったい何なのか。そして、なぜ5000年近い時間を経た遺跡と、現在の村が同じ場所に重なっているのだろう。
巨大な石環の中に、村がある
エイヴベリーを理解するとき、まず少し紛らわしいのが「ヘンジ」と「ストーンサークル」の関係だ。
ヘンジとは石そのものを指す言葉ではない。エイヴベリーでは、巨大な溝と土塁が円形の空間を囲み、その中に石環が造られている。現在の土塁も大きいが、完成当時には溝との高低差がさらに際立ち、掘り出された白いチョークが景観を強く印象づけていたと考えられている。
その囲いの内部に、外側の巨大石環がある。元の石数は98~105基ほどと推定され、さらに内側には北と南に一つずつ別の石環があった。南側の内環では、高さ約6.4メートルと記録された「オベリスク」と呼ばれる巨石が中心的な位置を占め、北側には「コーヴ」と呼ばれる特殊な石組みが置かれていた。

つまりエイヴベリーは、巨大な石を円形に並べただけの遺跡ではない。円形の土木構造の中に大きな石環があり、その内部にさらに二つの石環や特別な巨石配置が存在していた。現在の道路や建物は、その古代の構造と交差するように存在している。
それほど複雑なものが、最初から一つの巨大計画として造られたのだろうか。
一つの円ではない――エイヴベリーの巨大な構造
現在の考古学から見えてくるのは、完成図を持った誰かが巨大な円を一度に造り上げた、という単純な歴史ではない。
English Heritageは、エイヴベリーのヘンジと石環が、およそ紀元前2850年から紀元前2200年までの長い期間にわたって造られ、変更されたと説明している。土塁、溝、石環がどの順番で築かれたのかについても、完全には分かっていない。
しかも、視野を石環の外へ広げると話はさらに大きくなる。
北西にはウィンドミル・ヒルがあり、そこではエイヴベリーの巨大石環より何世紀も早い時代から、人々が集まっていた。南にはウェスト・ケネット・ロング・バロウという長大な墳墓がある。谷には巨大な人工丘シルベリー・ヒルがそびえ、エイヴベリーの南東にはサンクチュアリと呼ばれる円形遺構が築かれた。
エイヴベリーとサンクチュアリの間には、二列の巨石からなるウェスト・ケネット・アヴェニューが延びていた。その長さは約2.5キロメートルに及ぶ。

Photo: David Iliff / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
石環だけを見ていると、一つの遺跡に見える。ところが周囲まで視野に入れると、墓、集会の場、石列、巨大人工丘、円形施設が広い範囲に散在し、ときには石の列によって互いに結び付けられている。
エイヴベリーとは一個の建造物というより、何世代もの人々が長い時間をかけて手を加えていった景観だった。
完成品ではなかった――千年以上かけて広がった儀礼景観
その歴史は、エイヴベリーの巨大石環から始まったわけではない。
現在知られている主要な遺構の中では、ウィンドミル・ヒルの囲いが紀元前3675年ごろに築かれ、ウェスト・ケネット・ロング・バロウも紀元前4千年紀前半に造られた。エイヴベリーの大規模な石と土のモニュメントが発達するより、かなり前のことである。
紀元前3千年紀に入るころから、エイヴベリー周辺ではさらに巨大な構築物が増えていく。石環、土塁と溝、アヴェニュー、サンクチュアリ、シルベリー・ヒル。UNESCOが世界遺産として評価しているのも一個の石環だけではなく、紀元前3700年ごろから紀元前1600年ごろまで、およそ2000年にわたって利用と建設が続いた先史時代の景観全体である。
何をしていた場所なのかについては慎重に考える必要がある。考古学者は、集会、儀礼、行列などが重要だった可能性を指摘しているが、現代の建物のように「これは神殿」「これは広場」と一つの用途を割り当てることはできない。
ウェスト・ケネット・アヴェニューも、単なる古代の道路と考えるには奇妙だ。二列の巨石がエイヴベリーとサンクチュアリを結び、途中には埋葬の痕跡もある。人々が儀礼的に移動する経路だった可能性を含め、その役割については複数の解釈が考えられている。
重要なのは、後の世代が何もない土地を選んだのではないことだ。そこにはすでに墓があり、人々が集まった場所があり、それ以前の活動の痕跡が残っていた。同じ土地へ新しい構築物を重ねていく行為自体に、何らかの意味があった可能性がある。
その考えをさらに強く意識させる痕跡が、エイヴベリーの石環の中心部から見つかっている。
巨大石環より古い「一軒の家」があったのか
2017年に行われた地球物理探査と、1930年代の発掘記録の再検討によって、南側の内環には、それまで十分に理解されていなかった構造があることが明らかになった。
中心付近には四角形を描くような巨石の配置があり、そのさらに内側には、小規模な建物の跡と解釈できる痕跡があった。
2019年、考古学者マーク・ギリングス、ジョシュア・ポラード、クリスティアン・ストラットは、この建物を初期新石器時代の「foundational house」とする仮説を発表した。彼らが提示した順序では、まず家と考えられる構造があり、その後にオベリスクや四角形の石組み、さらに南側内環が形成されていった可能性がある。

これは確定した歴史ではない。
建物と解釈されている遺構には直接年代を確定できていない部分があり、石組みとの時間的関係にも不明点が残る。研究者自身も、証明済みの事実としてではなく、現在の証拠から考えられる構築順序として提示している。
それでも、この仮説が示す発想は興味深い。後に途方もない量の労働を必要とする巨大なモニュメントへ発達した場所の中心に、もっと古い時代の一軒の家と、その場所にまつわる記憶が存在したのかもしれない。
だが、長い時間をかけて造られたからといって、その景観がそのまま現代まで残ったわけではなかった。
石は消えた――そして20世紀に再び立ち上がった
現在エイヴベリーを歩くと、草地の中に大きなサーセン石が立っている。数千年間ずっと同じ姿で立ち続けてきたようにも見える。
実際には、多くの石が一度姿を消している。
中世になると、一部の巨石が倒され、地面に掘った穴へ埋められた。なぜそうしたのかは分からない。異教的な石を嫌ったためだという説明もあれば、農地として利用する際に邪魔だったためではないかという見方もあるが、理由を確定できる証拠は残っていない。
さらに後世になると、石を割って建築材料に利用する行為も進んだ。かつて存在した巨大石環は少しずつ欠けていった。
もしそれだけなら、エイヴベリーの元の姿はさらに分からなくなっていただろう。ところが17世紀のジョン・オーブリーや18世紀のウィリアム・ステュークリーといった古物研究家が、まだ残っていた石や遺構を観察し、記録を残した。彼らの解釈には現在では支持されないものもあるが、失われる前の配置を知る資料として、その記録は大きな意味を持つことになった。
そして20世紀、エイヴベリーの景観はもう一度大きく変わる。1930年代、考古学者アレグザンダー・キーラーがウェスト・ケネット・アヴェニューやエイヴベリー本体を発掘し、中世に埋められていた巨石を発見した。彼は発掘した石の一部を再び立て、失われた石については、その位置を示す標識を設置した。
キーラーは1937年にエイヴベリーの地所を購入し、石環内部に後世造られた建物の一部を撤去した。建物に使われていた石を、推定された本来の位置へ戻した例もある。
現在、訪問者が目にするエイヴベリーの姿は、5000年前の景観がそのまま凍結保存されたものではない。一部の巨石は20世紀になって再び立ち上がり、失われた石の位置も考古学的な調査によって可視化されている。
だからといって、現在のエイヴベリーを単純に「復元された偽物」と考えることもできない。むしろ、この再建立まで含めて見たとき、この場所が経験してきた時間の長さが見えてくる。
分かってきたことと、まだ分からないこと
エイヴベリーは、すべてが謎に包まれた遺跡ではない。
いつごろ造られたのか。巨大な土塁と溝の内部に複数の石環があったこと。周辺により古い墓や集会地があり、後には石のアヴェニューや巨大人工丘を含む景観へ発達したこと。中世以降に多くの石が失われ、20世紀に一部が発掘・再建立されたこと。こうした大きな歴史は考古学によってかなり明らかになっている。
一方で、その構築物を使った人々が何を考えていたのかとなると、答えは難しくなる。
なぜ二つの内側石環が必要だったのか。特定の石や配置にどんな意味があったのか。人々がアヴェニューをどのように移動し、そこでどんな行為をしたのか。そうした部分には今も複数の解釈が残っている。
かつては、エイヴベリーやStonehengeのような巨石遺跡をドルイドと結び付ける考えが広まった。18世紀のステュークリー自身もドルイドを重視した。しかし、現在知られているエイヴベリーの主要建設年代は紀元前3千年紀であり、古典史料に登場する鉄器時代のドルイドよりはるかに古い。建設者を歴史時代のドルイドとみなす説明は年代的に成立しない。
天文学についてもStonehengeと同じ扱いにはできない。エイヴベリーの考古天文学的研究では、四つの入口をはじめとする主要方向と天体との間に、説得力のある関係はほとんど確認されていない。だからといって当時の人々が空を意識しなかったと証明できるわけではないが、エイヴベリー全体を精密な天文観測装置だったとみなすだけの証拠もない。
分かっていない部分は確かにある。ただ、それは「科学でも説明できない場所」という意味ではない。
調査が進むほど、この場所は一つの謎から、一つの長い歴史へ変わってきた。
古代だけでは終わらない景観
2026年10月現在、エイヴベリーのヘンジと石環は日中に無料で見学できる。現在も村の道路や歩道を通りながら、現代の建物と巨石が重なる景観を歩くことができる。周辺の遺跡にも歩いて向かえるが、シルベリー・ヒルは敏感な考古学的遺構を保護するため、丘そのものへの一般立入は認められていない。
しかし、ここを現在まで残っている古代の景色としてだけ眺めると、エイヴベリーの重要な部分を見落とすことになる。
最初に石を立てた人々がいた。その前にも、この土地へ集まり、墓を造り、暮らした人々がいた。後世には石を倒し、埋め、割った人々がいる。失われつつある姿を記録した人がいて、地下から石を探し出し、再び立てた考古学者もいた。
その間にも村は存在し続け、道が通り、家が建った。
上空から見れば、今も巨大な円の内側を現代の道路が横切っている。記事を読む前なら、それは古代遺跡の中に偶然村が入り込んだ奇妙な光景に見えるかもしれない。
だが、その重なりこそがエイヴベリーの時間を物語っている。
数千年前に完成して時間が止まった遺跡ではなく、造ることも、壊すことも、忘れることも、記録することも、掘り出して再び立てることも含めて、人間が5000年近く関わり続けてきた場所なのである。
古代遺跡なのに、その景観は古代だけでは完成しない。
参考資料・出典
- English Heritage – History of Avebury Henge and Stone Circles
- English Heritage – Description of Avebury Henge and Stone Circles
- English Heritage – The Avebury World Heritage Site
- English Heritage – History of Windmill Hill
- National Trust – Avebury’s history
- Gillings, Pollard & Strutt – The origins of Avebury
- Stonehenge and Avebury Research Framework – Avebury Resource Assessment
- UNESCO World Heritage Centre – Stonehenge, Avebury and Associated Sites
- English Heritage – Avebury visitor information
- English Heritage – Silbury Hill visitor information





