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トルコ・カヤキョイ|人が消えた廃墟の町、その理由

トルコ・カヤキョイ 廃墟の町 廃墟・放棄された場所

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カヤキョイ――人が消えた山腹に、家だけが残った町

トルコ南西部のカヤキョイ(Kayaköy)には、奇妙な光景が残っている。山の斜面を埋める石造りの家々。窓も屋根も失った建物の間を細い道が走り、その中に教会や学校の跡が混じる。

場所はムーラ県、フェティエ(Fethiye)の市街から約8キロ。現在は歴史的な遺跡として公開されているが、ここは古代文明が突然消えた遺跡ではない。目の前に残っている町並みの多くは、わずか100年余り前まで人が暮らしていた生活の場だった。

では、なぜ町だけがこれほど大きな形で残り、住民はいなくなったのか。

答えをたどると、1920年代に行われたギリシャとトルコの強制的な住民交換に行き着く。

トルコ・カヤキョイの山腹に広がる屋根を失った石造住宅の廃墟群
山腹に広がるカヤキョイ旧市街。現在見える町並みの多くは、オスマン帝国末期に発達した近代の集落である。
写真:Ghost town Kayakoy IMGP8863.jpg/作者:Nikodem Nijaki/ライセンス:CC BY-SA 3.0

廃墟に見えるのは、古代都市ではなく近代の町

カヤキョイの旧市街は、かつてリヴィシ(Levissi)と呼ばれていた。現在残る石造住宅や教会の多くは、オスマン帝国末期、とくに19世紀後半から20世紀初頭に発達した町の建物である。

トルコ文化観光省系の公式紹介は、旧市街に350~400戸の住宅があるとしている。一方で、研究論文や行政資料には約2,000戸、約3,500戸とする数字もあり、資料ごとに数え方が一致していない。

そのため「最盛期には何戸あった」と一つの数字を断定するのは難しい。ただ、山腹の広い範囲に住宅が密集し、複数の教会や学校、商業施設などを備えた相当な規模の町だったことは確かである。

19世紀半ばの旅行者の記録には、すでに300~400戸ほどのよく建てられた住宅があったとされる。その後も町は発展し、20世紀初頭には数千人規模の住民が暮らしていたとみられている。

石の家には、生活の工夫が埋め込まれていた

廃墟になった現在でも、カヤキョイの建物を見ると、この町が単なる住宅の寄せ集めではなかったことが分かる。

公的資料によれば、住宅の多くは50平方メートル以下の比較的小さな建物で、傾斜地に沿って建てられていた。下階を倉庫として使う家もあり、隣家の日当たりや眺望をできるだけ妨げないよう配置されていたと説明されている。

さらに重要なのが水である。

この斜面では水の確保が簡単ではない。そこで多くの住宅には、屋根に降った雨を集め、地下の貯水槽へ送る仕組みが設けられていた。細い石畳の道には排水のための溝もつくられていた。

つまり、現在見えている「空っぽの石箱」は、もともとは水の確保まで考えて設計された生活装置だった。

住民の仕事も多様だった。地理学研究では、木工、靴製造、織物、銅細工、鍛冶、ワイン製造、商業などが行われ、周辺地域や島々との交易にも関わっていたとされる。

カヤキョイは、山あいに孤立した貧しい村ではなかった。周囲の農村や港、海上交通とつながった町だったのである。

町から人が消えた本当の理由

カヤキョイの廃墟を説明するとき、1957年の大地震が原因として語られることがある。

しかし時系列を見ると、それでは説明できない。

住民が町を離れ始めたのは、地震より30年以上前だった。

第一次世界大戦後、オスマン帝国が解体へ向かい、アナトリアではギリシャとトルコの間で戦争と大規模な住民移動が起きた。カヤキョイのギリシャ正教徒住民も、1922年前後までに故郷を離れていった。

そして1923年1月30日、ギリシャとトルコは住民交換に関する条約を締結した。

この制度は、単純に「ギリシャ民族とトルコ民族を交換する」というものではなかった。条約本文では、原則としてトルコ国籍のギリシャ正教徒と、ギリシャ国籍のイスラム教徒を対象にしている。一部地域には例外が設けられたものの、国家間の取り決めによって大勢の人びとが、それまでの居住地から移動させられることになった。

カヤキョイの歴史で重要なのは、この住民交換が「町の住民を別の住民に入れ替えた」だけでは終わらなかったことである。

新しい住民が来ても、町は元には戻らなかった

人口交換によってギリシャ側からトルコへ移住したイスラム教徒の一部が、カヤキョイ周辺にも配置された。

それなら、空いた住宅に新しい住民が入り、町はそのまま存続しそうに思える。

しかし実際にはそうならなかった。

研究資料によれば、新たに来た人びとの多くは山腹の石造住宅や当地の生活条件になじめず、平地や別の地域へ移っていった。その結果、旧市街には十分な人口が戻らなかった。

ここにカヤキョイが廃墟になった理由の核心がある。

町とは、建物だけで成り立っているわけではない。

住民がいなくなれば、職人の仕事、商店の取引、宗教施設を支える共同体、近隣との助け合い、周辺地域との交易といった関係も一緒に失われる。空き家に別の人を住まわせれば、以前と同じ町が再生するわけではなかった。

カヤキョイでは、石の建物は残ったが、それを町として機能させていた社会のつながりが切れてしまったのである。

1957年の地震は「町を空にした原因」ではない

1957年4月、フェティエ周辺では大地震が発生した。トルコ科学技術研究会議の資料では、4月25日の地震をマグニチュード7.1としている。

この地震はカヤキョイの建物にも大きな損傷を与えた。

ただし、その時点で旧市街の大半はすでに長く放棄されていた。

したがって、地震を「住民が町を捨てた原因」とするのは順序が逆になる。人口移動と再定住の不成立によって空いた町に、数十年後の地震がさらなる物理的破壊を加えた、と考えるのが正確である。

現在、屋根を失った住宅が斜面一帯に広がる景観は、1920年代の社会的断絶と、1957年の自然災害が重なってできたものなのである。

廃墟の中に残った教会

住宅群の中には、2つの大きなギリシャ正教会が残る。

カヤキョイ旧市街の上の教会と周囲に残る石造住宅の廃墟
カヤキョイ旧市街に残る上の教会。本文で触れるパナギア・ピルギオティッサは下の教会であり、この写真とは別の建物である。
写真:Ruins of the Upper Church in Kayaköy 2020-03-19-2.jpg/作者:Alexey Komarov/ライセンス:CC BY-SA 4.0

そのうち下側にあるパナギア・ピルギオティッサ(Panayia Pirgiotissa)は、住民交換後にモスクとして利用された時期があり、トルコ文化観光省系の資料では1960年代まで使われていたとされる。

この転用が、建物を比較的良好な状態で残す一因になったと公式資料は説明している。

一方、現在は保存や修復の問題も抱えている。トルコ文化観光省の公開情報では、上の教会と下の教会の中庭が修復工事のため閉鎖対象として掲載されている。

廃墟は、放置しておけばそのまま保存されるわけではない。残すためには、崩壊し続ける建物に手を入れる必要がある。

「誰もいない村」ではない

カヤキョイについて、もう一つ誤解しやすい点がある。

現在のカヤキョイ全体が無人なのではない。

大規模な廃墟として残っているのは、主として歴史的な山腹の旧市街である。周辺の平地や現代の集落には現在も居住が続いている。

つまり、ここでは「死んだ町」と「生きている町」が同じ地名の中に重なっている。

山腹には、かつての住民が暮らした住宅の壁が連なり、その足元では現在の生活が続いている。

カヤキョイが残しているもの

カヤキョイの廃墟を特別なものにしているのは、建物の古さではない。

むしろ逆である。

ここに残っているのは、歴史上それほど遠くない時代まで使われていた家、道、教会、学校、貯水槽である。それらが、住民だけを失ったかのような形で一帯に残っている。

人びとが去った原因も謎ではない。

戦争、国家間の対立、強制的な人口移動、再定住の失敗。そして、その後の地震。

一つひとつは記録に残る出来事だが、それらが重なった結果、町だけが取り残された。

カヤキョイを歩くとき、見えているのは「文明が突然消えた不思議な廃墟」ではない。

政治によって人が移され、共同体が断ち切られたあと、建物だけが長く残り続けた場所なのである。


参考資料・出典

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